I’m NOT a hero, and I CAN’T be a hero,but I LOVE heroes.〜ブライトバーン/恐怖の拡散者(2019)〜
2019年春。
ぼくは腹筋ローラーデビューを果たした。
理由は他でもない。
アベンジャーズへの加入である。
映画アベンジャーズエンドゲームの公開時、
ヒーロー達の身を呈した献身的な姿と
悪に立ち向かうその勇敢なスピリッツにいたく感動したぼくは
いつか来るであろう彼らと肩を並べて全銀河を守る日に備えていた。
27歳。男の決意である。
しかし29歳冬。
この映画を観て誓いはいとも簡単に折られることとなる。
能力者と一般人の差とはこのようなものなのか。
この映画を観るとどうも諦めざるを得ない。
ブライトバーン(2019)
長年愛されてきたヒーロー映画は
近年オリジナルの骨格を維持しながらも
映像技術の発展と平行して
物語も現実路線へと変化していった。
クリストファー・ノーラン監督のダークナイト三部作や
以前このブログでも書いたシャマラン監督の
イーストトレイル三部作など
絶対的な力が社会に与える影響や
自警的な正義執行へ市民の賛否など
これまでとは違う一歩現実味を帯びるような
そんな現代社会にリンクした
リアルなヒーローの姿が描かれることが多い。
登場人物を取り巻く社会との関わり合いが
より現実世界に沿って描かれるようになったのだ。
ブライトバーンでは
主人公の少年が特別な能力を持ちながら
正義の道ではなく悪への道へ歩む本作でも
これまでのヒーローアクションとは
異なるリアルなヴィランの姿が描かれたのである。
しかし本作はそういうリアルじゃない。
社会派とかそういうのじゃない。
本作では人が死ぬ。
徹底的に死ぬ。
思い出して欲しい。
これまでぼくたちが慣れ親しんだ
スーパーヒーローの戦いとは
どれだけ殴られても
どれだけ地面に叩きつけられても
壊れるのはコンクリートの壁や床で
せいぜいビームを受けて蒸発するか
影が散っていく程度。
どれほどのダメージを受けようとも
何度も立ち上がり諦めずに
悪へと立ち向かう姿に
ぼくたちは拳を握りしめ
彼らの名を叫び見守るしかないのだ。
しかしこれまでフォーカスされてきたのは
悪に立ち向かうヒーローと
正義のもとに制圧されるヴィランの姿であって
二次被害を受ける一般人の被害ついては
多少おざなりになってしまった。
もちろん逃げ惑う人々は
必ずといっていいほど描かれるのだが
それらはあくまでも「群れ」としての描写であり
ドラマではなく演出のひとつだ。
この物語の世界には
まだヒーローの存在はなく
主人公であるヴィランしか登場しない。
なので標的となるのは一般市民であり
ブライトバーンは一般人でも
容赦なく徹底的に破壊する。
ここでいう「破壊」というのは
街や建物だけだはなく「肉体」も含まれる。
骨はスナックのように折れ
肉体はチキンのように裂ける
全身はザクロのように弾け飛ぶ。
大人も子供も警官も
みんな分け隔てなく
平等にぶっちめられる。
一般人が能力者に“直”でいかれると
ああもなってしまうものなのか。
宇宙人による侵略や人類滅亡などそういった
壮大なスケールではなく
もっとシンプルで身近な
悪がもたらす死や痛みへの恐怖である。
こりゃ流石に腹筋ローラーで鍛えても
耐えられるはずもないのだ。
だからといって
他のヒーロー作品で
どれだけ壁や床に叩きつけられようと
宇宙から地上に落下してもなお
ピンピンしているのを
「漫画だから。」
「SFだから。」
そうやって一歩引いて
納得するのはナンセンスである。
タフだから。
タフネスだから。
君たちのようなパンピーとは違うのだよ。
ぼくの胸の内に住む少年がそう言う。
映画やドラマをどれだけ愛せるかは
その作品にどこまで入り込めるか。
その作品へどこまでホンモノと感じられるか。
まずそれが大きな分岐点であろう。
フィクションだから
作りものだからといって
どこか斜に構えたスタンスでは
物語へ没入することはできない。
これは特定のジャンルに限らず
映画以外でも音楽やアート
あるいは他の芸術鑑賞物を楽しむために
準備しておきたい心の持ち方ではないだろうか。
この作品でぼく自身の
ヒーローへの加入は挫折したが
同時に彼らの高潔な精神と
圧倒的なフィジカルの差を感じさせられ
ああぼくはやっぱりこのテの映画が
大好きだなんだなと改めて思った。
ブライトバーンの故郷は
カンザスの片田舎である。
子宝に恵まれなかった若い夫婦は
とある夜に空から隕石が落ちてくるのを見つけ
落ちた場所へ行くと隕石ではなく
小さな宇宙船であることがわかり
なかにはまだ生まれて間もない
赤ん坊が乗っていた。
彼らはその宇宙から来た
赤ん坊をブランドンと名付け
我が子同然に育てていく。
ここまでのシナリオとしては
スーパーマンと似ている。
というかもうスーパーマンである。
クリプトン人か
そうじゃないかの違いくらい。
しかし少年は
カル=エルでもなければ
クラーク・ケントにはなれず
悪へ導かれていってしまう。
スーパーマンとブライトバーンとでは
その出生のいったいどこで
差がついてしまったのとろうか。
おばさんが育て方を誤ってしまったのか。
それは否。
おばさんはブランドンを
本当の我が子以上に愛し
おじさんも同様に教育熱心で
非常に面倒見の良い人だった。
広大で自然豊かな農村であって
とりまく環境としても
グレる要素には足りていない。
元々が地球侵略を目的とした
悪の宇宙人だったのだろうと
推測できるよくな描写もあるのだが
孫悟空だって元はと言えば
残虐な戦闘民族だもんね。
血か環境か教育か。
子育てとは難しいものなのだろう。
人の親になれば
この作品の受け取り方も
また違う視点で観ることができるのだろうか。
前の記事へ