MUNE ATSUSHI | arts & illustrations

解なし意味なし理由なし

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先日街中で高速で首を振って
蛇行しながら走る男の子を見た。

行動は全くもって意味不明なのに
ただなぜか凄く楽しそうだった。

ぼくも一緒になって
走ってやろうかと思ったが
その先に男の子の両親であろう
大人2人が待っていたのでやめておいた。

ニコニコジグザグダッシュの
何がそんなに楽しいのか不思議だし
行動の理由もなければ意味もない。

ただ強いて言えば
「楽しいから」なのだろう。

ただそれだけなのだろう。

ーーー

「楽しいから」

「楽しそうだから」

年齢を重ねるうちいつの間にか
自分から発する考えや行いに
意味や理由を求められるようになった。

いや、どちらかというと
自分で求めるようになったのだろう。

何か考えをもって発言するには、
意思を伝えるには理由が必要になる。
その理由も合理的でなければならないし
何かひとつ行動を起こそうものなら

結果として何を残せるか
その先に何が得られるか

意義や意味をセット組にされる。

合理性や優先されいつの間にか
「楽しいから」から始まる考えや行いが
自分で認められなくなってきたのだ。

自分に求めるからこそ
他人にも求めるようになり
抱いていた理想とは真逆の
カタブツにどんどんと近づいている。

何事も楽しい方がいい。
それはゆるぎない正しさだろう。

ただしこの世界では
自分が楽しいだけではなく同時に
人様をも喜ばせなければならないようだ。
それがぼくの得た結論。

「みんなが楽しめるためには
まずは自分達から楽しむ。」

「自分が楽しめばみんなも楽しい。」は
残念ながらエゴであって
ポジティブの押し付け他ならない。
ホントお疲れ様でした。

ただし「楽しい」をベースに
人を巻き込んだり成功を手に入れられる人も
この世界にも間違いなくいる。

決して押し付けやエゴなんかではない。
そんな人は一緒にいると本当に楽しいのだ。

楽しそうから始まったことが
いかに利益をもたらし、
結果が期待できるものなのかを
きちんと言葉と表現力によって
人々からの共感を得られ
結果としてアソビを
ビジネスに置換できる例や

反対に仕事ではあるものの
その仕事がいかに夢や希望に溢れ
いかに充実した時間と楽しいさを
与えられるのかを共に働く仲間や
クライアントに発信し続けるいわば
「遊ぶように働く」姿。

アソビからシゴトへ、

シゴトをアソビへ。

遊びだろうと仕事だろうと
何であろうと人間というのは
誰かとの気持ちのシェアで成り立っていて

つまるところ人を動かすのは
誰かを喜ばせたいという
まっすぐな純粋さであり
そうやってこの世界はうまいこと循環している。

ーーー

作家の端くれとして
これまで絵を描くことで
自分の表現なりのを模索してきました。

アートという媒体を使いながらも
もっと直接的に
端的に自分の思いや心情を
誰かに伝えられたらと思って
描き続けていたはずだったのに

「この絵で誰が幸せになるのだろうか。」

「誰かの心は豊かになるのだろうか。」

「そもそもこれは何の為のものなのだろうか。」

「絵を描いた先に何かが待っているのだろうか。」

なぜ?とか
何の為に?とか

求めるシンプルさとは反対に
意義や意味を求めるばかりで
そんななりたい自分と
在りたくなかった自分の間で
どんどん心は小さくなっていく。

本当は

「楽しいから」
「嬉しいから」
「悲しいから」
「苦しいから」

そんな理由と原動力で生きたいが
そんな理由で動く自分を許すことが出来ない。

同じところで立ち止まってばかりで
世界の循環どころか
まるでこの世界は回るのを
辞めてしまったのだろうとすら思える。

そうやって濁っているいま
ニコニコジグザグダッシュの彼と出会った。

首を左右に振りながら
全力疾走していた男の子。

ぼくも混じりたくなったのは
あまりにも透けてしまう程の眩しい
独りよがりな純粋さが羨ましくなったから。

きっと彼を中心に
このこの世界は回ってるんだろう。

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